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A:私が日本に来た時は本当に平和で、魅力的な国だった。NHKも素晴らしいドキュメンタリーを作り、以前の日本が悪いことをしたと認めていた。南京事件もさることながら、731は否定のできない事実であった。私の著書の「ユニークな日本人」は右翼、保守派に大変人気があった。保守派は、進歩派が優勢だったので長い間我慢をし、 今は完全に逆転している。その責任者の一人は櫻井よしこで、彼女はだんだん右寄りになり、講演会で人気となり、保守派が勢力を増した。NHKもだんだん右寄りになり残念だ。ひどいのは産経新聞だが、駅の売店なんかでは、読売新聞と同じようによく売れている。日経新聞も進歩的だったが、完全に右寄りとなった。 Q:アメリカが1971年に沖縄を日本に返した時の思惑は? ①尖閣の所有権について主張する権利がない②将来の紛争のタネにするため、わざと所有権を曖昧にした。のどちらと思うか? A:1943年のカイロ会談では、ルーズベルトは沖縄を中国(当時は国民党)に任せようとしたが、蒋介石はアメリカとの共同管理を提案した。終戦後台湾ロビーが積極的に動いたが、当時のアメリカは台湾ロビーを満足するために、所有権を曖昧にした。 Q:天安門で報道されているような虐殺がなかったなら、中国は堂々とそれを主張すれば良いのに、隠そうとしているのはなぜなのか? 尖閣列島を棚上げにするのは一つのアイデアと思うが、具体的にどうすればよいのか? A:石原慎太郎が手を出さなければ、また国有化をしなければ棚上げの状態はそのまま続いていた。鄧小平が言ったように、所有権は将来の問題として、次世代に共同領土とすればよい。具体的にどうすればよいかについては、日本人が性質を変えなければならないだろう。アメリカ局長の吉野文六氏が密約は存在すると発表した翌日に、安倍首相は国会答弁で密約は存在しないと平気で嘘をついた。建前と本音が違うというのは日本人独特の性質であり、中国も含めて外国人とは異なる。日本は本件についてはもっと大人らしく振舞うべきだ。日本では面白い現象があり、誰かが何かを発表してもマスコミはすぐあの人の真意は違う所にあるのだと書く。 Q:今の中国の指導者についてどう思うか? A:中国の新しいリーダーシップにかなり期待している。特に腐敗については。今の腐敗はどうしようもなく、必ず強い反発が出てくるだろう。今のリーダーシップはそれが解っていて、本格的に何かをやろうとしている。問題はバブルで、日本は固定資産税 で上手くコントロールしているが、中国では上海と重慶だけが固定資産税をかけている。一人っ子政策も早く止めるべきだったが、中国は案外暢気な所がある。 Q:日中国交正常化の時に、周恩来と田中角栄が棚上げに合意したというのは事実であり、当時の読売新聞の社説でも棚上げ支持と書かれていた。なぜ棚上げが文章として残らなかったか? A:文章としては残っていない。周恩来は言ったが、田中角栄ははっきり返事をしなかったという情報もある。田中方式で「よっしゃ、よっしゃ」でなかったか。そういった意味では棚上げが100%決まった訳ではない。78年に鄧小平は次の世代に任そうとはっきり言ったが、それに対して当時の園田外相はノーとは言わなかった。 Q:堤清二さんの大平正芳の生涯について書かれた「茜色の空」で、その際のやりとりが詳しく書かれている。ほぼ合意していたが、最後その部分が残り、大平が根回しして 周恩来と話をして、最終的に田中に言わせたということが詳しく書かれている。 A:当時親台湾派が自民党の中に沢山いたので、そういう人達を怒らせたくなかったので、はっきり文章にしなかったのではないかと私は思う。 Q:韓国が中国寄りになり、日本が孤立するというお話があったが、日中韓の関係を促進するために、若い人に何を期待しているか? A:田母神さんの講演会に行ったら、半分以上が若者だった。日本の若者は保守的で期待できない。韓国はbalance of powerがあるので、期待できる。若者による交流改善は、今の日本の状態だと無理。しかし、最近の韓国の動きを見て、多少展望が開けてきた。 アメリカもバックアップするでしょう。あのvery disappointedは大変意味がある。アメリカがバックアップしないと日本は中国と韓国に対抗できないでしょう。
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