JAPANESE ARTICLES, 週刊時事

週刊時事

Shuukannjiji 1983.6.4Japanese are insensitive to accomplished facts. 「週刊時事」1983年6月4日 (なで斬り時評) ・「既成事実」 に鈍感な日本人―たまには日に当て再検討を   近ごろ、大阪空港の騒音問題が新開の紙面をにぎわしている。世論も裁判所も、被害者である空港周辺の住民にかなり好意的な理解を示しているように思われる。 さて、東京の都心に住んでいる私も、実は、飛行機の騒音公害の被害者である。東京のどまん中に飛行場などあったかな、とぶかしく思われる方もあろうが、ほかならぬヘリコプターである.これが朝な夕な、私の頭上を徘徊するのである。大型でしかも低空飛行で、ダダダダとやって来ると、心は乱れ仕事は手につかない. 外国だったら、、都心で毎日毎日こんなことが許されるはずがない。第一、市民がほうっておかないだろう.一人一人が声を上げてそぅいうことを許さない風土を作りあげてしまっている.他人に迷惑をかけている人がいれば黙って見すごすわけにはいかない.特に静けさというものを非常に大切に思っているということもある. 少なくとも大阪空港の場合は、どうしてもどこかに空港をつくらなければならないという事情があることはだれでも納得している。しかし、私の頭上のヘリコプターの場合は、どうしても飛ばなければならな理由は少しもない.ほんの一握りの人間の利益とか便利さ、あるいは単なる遊びのため飛ばせているのである。それなのにどうして大阪空港の場合は大騒ぎして世論も盛り上がり、住民の声が尊重されるような形で処理されようとしているのに、東京上空のへリ公害は、悠然とまかり通っているのだろうか.ここにも日本人のユニークさが表れている. 大阪空港の場合は、これが新しく発生した事態であるというところに重要な意味がありそうだ.日本人は新しく発生した事態には敏感に反応する。新空港が出来た。飛行機の離着陸で急にうるさくなった.というわけで、これは現状を破壊する。だから人々はすぐ反発を示したわけである。そしてみんなが団結して闘うことができた。 しかし、東京のヘリコプターの場合は、今始まったことではない.もう長く続いていて、みなさん慣れてしまっているのだ。もうすでに既成事実となって、人々の頭の中に組みこまれているのである。こういう種類のことがらに対しては日本人の反応は驚くほど鈍感である。 ここ数年、自転車の効用が見直されて、交通手段として重要な位置を占めるようになった。しかし、ここでは自転車が「遅れて来た」のである。自転車は一台が占める空間から見ても、排気ガス、騒音の点からしてもきれいなもので、人をひき殺すこともない。社会の中では、車よりもずっと歓迎きれるべきものであるにもかかわらず、人々から冷遇されている。この場合は車は既成事実、もうすでに社会の中での位置づけが確保されている。それは不問に付される.車が最使先されていることにだれも疑問を持たない。したがって自転車は、車道を走れば車にいつ飛ばされるかわからない。歩道を走れば、歩く人に白い自で見られる。駅に駐車すれぼ、大問題。ところが路上に、しかも幹線道路を堂々と片側車線をブロックして車を止めていても人々は知らん顔である。やる方もやられる方も〃こういうもんだ″という慣れから来る不感症である. このように、新しい事態が発生したり、顕在化した際の日本人の反応は敏感で、時にはヒステリックでさえある。しかし、それがほとんどなくして沈静化したあとは、逆にきれいにさっぱりと人々の意識からはずされてしまう。この両極瑞ともいえる現象の間にもう少しバランスがとられればいいのではないか。 「既成事実」を「既成事実」と葬り去らないで、時にはいま一度、掘り起こして、日に当てて再検討を加えてみることも必要ではないか。日本人のきめ細かな「気くばり」がそこに生かされれば、さらに住みよい社会になるはずである。 「週刊時事」1983.7.9 Unscientific logic of controling big supermarkets is the main reason for the failure of domestic demand. 大型スーパー規制の非科学的論理こそ内需不振の主原因だ  最近、外国人の友人が自転車を買いに行った。日本はよい工業製品を安く生産する、という評判を知っていた彼は、一万五千円も出せば、品質の良い自転車が買えると思っていたところ、実際には四万円近くもしたので、あまりの高さにびっくりしてしまったという。 しかし、その翌日、彼は、もっとぴっくりするような事にでくわした。他の店で、小さなモーターバイクがたったの四万四千円で売られているのを発見したのである.それらのバイクには、もちろんエンジンもライトも、また自転車にはついていない部品や装備まで施してある。なのにバイクと自転車の小売価格には大差はない.外国では、バイクの価格は自転車の四、五倍するのが常識だ。日本で生活している者にとっては、こうした価格状況は大して不思議なことではない。 自転車が高いのは、メーカー側がぐるになりメーカーおよび流通業者に高いマージンを確保するために、足並みをそろえているからであり、バイクが安いのは、マーケットシェアをめぐって、メーカー同士が激しい競争状態にあるからである。 この自転車とバイクの例は、日本の効率の悪い流通システムが日本の消費者にしわよせされている極端なケースかもしれない。しかし、同じような例は周りにゴロゴロしている。にもかかわらず依然として流通機構の非能率さが改善されないばかりでなく、むしろそれを保護しようとする動向さえある。これにはまったく理解に苦しむ。私のいっているのは、もちろん大型スーパー設立を規制しようとする動きのことである。 他のどの国でも、スーパーマーケットは、流通におけるコスト軽減に重要な役割を果たすとみなされている。スーパーは、少ないスタッフで大きな効果をあげる、いわばサービス産業界のロボットである。 製造業界においてロボットの高度利用を誇る日本は、皮肉なことに、サービス産業におけるいわばロボット(スーパーマーケット)の使用を拒絶している。これは日本経済に深刻な不均衡をもたらす原因ともなっており、さらにそれが転じて貿易摩擦の主たる原因にさえなっているのである。 日本で非常に効率よく生産された製品は日本ではよく売れず、海外で大変よく売れている。海外より輸入される品物は、日本のおかしな流通機構のため一層売れにくく、なかなか日本市場へ食い込めないのが現状だ。同様に日本のサービス産業の弱さは、日本における景気後退を深刻なまでに長びかせている、内需不振の主な要因になっている。 日本のある人々は、流通機構の非能率性は、失業を防ぐために、大きな役割を果たしているのだ、とむしろ擁護する立場をとっている。しかし、これは非常に非科学的な議論にすぎない。失業を防ぐために、車やバイクはすべて手作業で組み立てられるべきだと主張するのと同様だからである。 日本でスーパーが急にたくさんできるなら、流通機構が改善され、そのために一時的 に失業率も高まるであろう。しかし、一流通コストの軽減と中間マージンの引き下げは消費者と流通業者双方に新たな収入として働くであろう。新たな収入は新たな購買力を生むだろう。それが自動的に一時的に失業する者に対して新たな雇用を生むことになろう。国内の流通システムが合理化され、安いVTRを買うのにわざわぎ秋葉原まで出かけなければならなかったのが、近くのディスカウントショップで安く手に入るようになれば、自然に需要も伸びるというものだ。内需不振問題もきれいに解決する。 製造業の組織化にはこれほど進歩的な日本人が、流通部門やサービス産業の組織化に、 なぜこれほど保守的なのであろうか。われわれ外国人の場合は正反対である。ここにもまた一つ、ユニークな日本人と外国人との違いの例がみられる。 「週刊時事」1983.8.13Japanese political parties also should value principles a little more: the strange case

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