JAPANESE ARTICLES, 週刊時事

週刊時事

Shuukannjiji 1983.6.4
Japanese are insensitive to accomplished facts.

「週刊時事」1983年6月4日 (なで斬り時評) ・「既成事実」

に鈍感な日本人―たまには日に当て再検討を

  近ごろ、大阪空港の騒音問題が新開の紙面をにぎわしている。世論も裁判所も、被害者である空港周辺の住民にかなり好意的な理解を示しているように思われる。 さて、東京の都心に住んでいる私も、実は、飛行機の騒音公害の被害者である。東京のどまん中に飛行場などあったかな、とぶかしく思われる方もあろうが、ほかならぬヘリコプターである.これが朝な夕な、私の頭上を徘徊するのである。大型でしかも低空飛行で、ダダダダとやって来ると、心は乱れ仕事は手につかない. 外国だったら、、都心で毎日毎日こんなことが許されるはずがない。第一、市民がほうっておかないだろう.一人一人が声を上げてそぅいうことを許さない風土を作りあげてしまっている.他人に迷惑をかけている人がいれば黙って見すごすわけにはいかない.特に静けさというものを非常に大切に思っているということもある. 少なくとも大阪空港の場合は、どうしてもどこかに空港をつくらなければならないという事情があることはだれでも納得している。しかし、私の頭上のヘリコプターの場合は、どうしても飛ばなければならな理由は少しもない.ほんの一握りの人間の利益とか便利さ、あるいは単なる遊びのため飛ばせているのである。それなのにどうして大阪空港の場合は大騒ぎして世論も盛り上がり、住民の声が尊重されるような形で処理されようとしているのに、東京上空のへリ公害は、悠然とまかり通っているのだろうか.ここにも日本人のユニークさが表れている. 大阪空港の場合は、これが新しく発生した事態であるというところに重要な意味がありそうだ.日本人は新しく発生した事態には敏感に反応する。新空港が出来た。飛行機の離着陸で急にうるさくなった.というわけで、これは現状を破壊する。だから人々はすぐ反発を示したわけである。そしてみんなが団結して闘うことができた。 しかし、東京のヘリコプターの場合は、今始まったことではない.もう長く続いていて、みなさん慣れてしまっているのだ。もうすでに既成事実となって、人々の頭の中に組みこまれているのである。こういう種類のことがらに対しては日本人の反応は驚くほど鈍感である。 ここ数年、自転車の効用が見直されて、交通手段として重要な位置を占めるようになった。しかし、ここでは自転車が「遅れて来た」のである。自転車は一台が占める空間から見ても、排気ガス、騒音の点からしてもきれいなもので、人をひき殺すこともない。社会の中では、車よりもずっと歓迎きれるべきものであるにもかかわらず、人々から冷遇されている。この場合は車は既成事実、もうすでに社会の中での位置づけが確保されている。それは不問に付される.車が最使先されていることにだれも疑問を持たない。したがって自転車は、車道を走れば車にいつ飛ばされるかわからない。歩道を走れば、歩く人に白い自で見られる。駅に駐車すれぼ、大問題。ところが路上に、しかも幹線道路を堂々と片側車線をブロックして車を止めていても人々は知らん顔である。やる方もやられる方も〃こういうもんだ″という慣れから来る不感症である. このように、新しい事態が発生したり、顕在化した際の日本人の反応は敏感で、時にはヒステリックでさえある。しかし、それがほとんどなくして沈静化したあとは、逆にきれいにさっぱりと人々の意識からはずされてしまう。この両極瑞ともいえる現象の間にもう少しバランスがとられればいいのではないか。 「既成事実」を「既成事実」と葬り去らないで、時にはいま一度、掘り起こして、日に当てて再検討を加えてみることも必要ではないか。日本人のきめ細かな「気くばり」がそこに生かされれば、さらに住みよい社会になるはずである。


「週刊時事」1983.7.9

Unscientific logic of controling big supermarkets is the main reason for the failure of domestic demand.

大型スーパー規制の非科学的論理こそ内需不振の主原因だ

 最近、外国人の友人が自転車を買いに行った。日本はよい工業製品を安く生産する、という評判を知っていた彼は、一万五千円も出せば、品質の良い自転車が買えると思っていたところ、実際には四万円近くもしたので、あまりの高さにびっくりしてしまったという。 しかし、その翌日、彼は、もっとぴっくりするような事にでくわした。他の店で、小さなモーターバイクがたったの四万四千円で売られているのを発見したのである.それらのバイクには、もちろんエンジンもライトも、また自転車にはついていない部品や装備まで施してある。なのにバイクと自転車の小売価格には大差はない.外国では、バイクの価格は自転車の四、五倍するのが常識だ。日本で生活している者にとっては、こうした価格状況は大して不思議なことではない。 自転車が高いのは、メーカー側がぐるになりメーカーおよび流通業者に高いマージンを確保するために、足並みをそろえているからであり、バイクが安いのは、マーケットシェアをめぐって、メーカー同士が激しい競争状態にあるからである。 この自転車とバイクの例は、日本の効率の悪い流通システムが日本の消費者にしわよせされている極端なケースかもしれない。しかし、同じような例は周りにゴロゴロしている。にもかかわらず依然として流通機構の非能率さが改善されないばかりでなく、むしろそれを保護しようとする動向さえある。これにはまったく理解に苦しむ。私のいっているのは、もちろん大型スーパー設立を規制しようとする動きのことである。 他のどの国でも、スーパーマーケットは、流通におけるコスト軽減に重要な役割を果たすとみなされている。スーパーは、少ないスタッフで大きな効果をあげる、いわばサービス産業界のロボットである。 製造業界においてロボットの高度利用を誇る日本は、皮肉なことに、サービス産業におけるいわばロボット(スーパーマーケット)の使用を拒絶している。これは日本経済に深刻な不均衡をもたらす原因ともなっており、さらにそれが転じて貿易摩擦の主たる原因にさえなっているのである。 日本で非常に効率よく生産された製品は日本ではよく売れず、海外で大変よく売れている。海外より輸入される品物は、日本のおかしな流通機構のため一層売れにくく、なかなか日本市場へ食い込めないのが現状だ。同様に日本のサービス産業の弱さは、日本における景気後退を深刻なまでに長びかせている、内需不振の主な要因になっている。 日本のある人々は、流通機構の非能率性は、失業を防ぐために、大きな役割を果たしているのだ、とむしろ擁護する立場をとっている。しかし、これは非常に非科学的な議論にすぎない。失業を防ぐために、車やバイクはすべて手作業で組み立てられるべきだと主張するのと同様だからである。 日本でスーパーが急にたくさんできるなら、流通機構が改善され、そのために一時的 に失業率も高まるであろう。しかし、一流通コストの軽減と中間マージンの引き下げは消費者と流通業者双方に新たな収入として働くであろう。新たな収入は新たな購買力を生むだろう。それが自動的に一時的に失業する者に対して新たな雇用を生むことになろう。国内の流通システムが合理化され、安いVTRを買うのにわざわぎ秋葉原まで出かけなければならなかったのが、近くのディスカウントショップで安く手に入るようになれば、自然に需要も伸びるというものだ。内需不振問題もきれいに解決する。 製造業の組織化にはこれほど進歩的な日本人が、流通部門やサービス産業の組織化に、 なぜこれほど保守的なのであろうか。われわれ外国人の場合は正反対である。ここにもまた一つ、ユニークな日本人と外国人との違いの例がみられる。


「週刊時事」1983.8.13
Japanese political parties also should value principles a little more: the strange case of cooperation between the New Sarariman Party and the Welfare Party

  ・日本の政党も原則、理念をもう少し重視してはどうか―奇異なサラ新党と福祉党の協力 もうかなり以前に、テレビの新年特別番組で、各政党の党首が一緒におふろに入ってビールを飲みながら、新年の抱負などを語り合つている場面を見た。その和気あいあいたる雰囲気には、非常なカルチャーショックを受けたことを覚えている。 またあるときは選挙直後に開かれた各党代表の座談会で、それまでの激しい選挙戦中のやりとりとは打って変わって、「茨城ではオタクにやられましたな」とか「00ではあな たがたも相当がんばったな」とか、いい合っているのを開いた時も、日本の政治はあまりイデオロギー的ではない、むしろイデオロギー抜きという印象を強くした。、 先ごろ行われた参議院選挙でも、改めてその感を深くした。たとえば、同じ革新に属する社会党と共産党の間で、一向に選挙協力が見られなかったことである。外国でなら、一人でも多くの革新候補を当選させるためには、お互いの協力は必至の場面であろう。 それに社会党と共産党とは、思想的にみてかなり似通った政党のはずである。実際に、 今回の選挙でも社会党と共産党の支持票を合わせれば、自民党支持票よりも多くなったはずの選挙区もあちこちに見られた。外国人の発想では、これを黙って見過ごすはずはなかつたのであるが、社会党、共産党の場合はどうしても協力したくなかった。 それはなぜだろうか。彼らにとって、自分たちのグループの結集カと威信がなによりも大事なのである。とくに共産党の場合は、落選が確実であっても、必ず候補者を立てなければならなかった。そうしなければ党の士気が落ちてしまう。自分たちのグループの利益よりも、イデオロギーを優先させて協力して行くという発想法はどうしても出て来ない。これはグループ主義社会の特徴である。 今回の選挙では、また、ミニ政党現象が目立った.サラリーマン新党や福祉党などの新しい、ミニ政党が、選挙公約で的をしぼって国民に訴え、それが成功した。これは喜ばしいことであった。なぜなら、新鮮で元気のある政党が出て来て的確に国民にアピールすれば、それが成功するということの現れであって、日本の政治の健全さの証拠でもあるからだ.新自由クラブがデビューした時も、ちょうどこれと同じだった。新自クは後になってその活力を失った。かつてのような元気がなくなったのは、はっきりした政治理念がなかったためと思われる。 今回の、ミニ政党現象は、新聞などでは予想外といわれたが、私にとっては別に予想外ではなかった。既成政党の人気が落ちている中での、来るぺき現象であった。しかし、そのあとで、これらの政党は、国会内での協力を発表した。これまた奇異な感じがするのである。 サラ新党の場合は、その主張は減税である。それに対して福祉党の場合は、福祉重視 を主張している.この二つの主張は全く相いれない。むしろ正反対なのである。減税しょうとすれば、政府財政を必ず縮小しなければならないが、福祉を拡大すれば、財政はふくれ上がる。こうした目的の全く違う政党が協力しょうとしている。同じ、ミ二政党だから、国会内で団結しなければならないということらしい。だれもそこに矛盾を感じていないらしい。しかし、将来政治的な違いが表面化し、対立が生まれることは目に見えている。その時はどうするのか。日本の政治で政治理念とかイデオロギーがあまりにも軽く扱われている。 もちろん、欧米ほどにイデオロギー的になる必要はない。ただ、グループ的な価値観と、原則とか理念を中心に据えているイデオロギー社会的な価値観との間で、バランスをとる意味で、政治理念とかイデオロギーをもう少し重視することは必要ではないかと思う。そうなれば外国人にとっても日本の政治はもっとわかりやすくなるだろうし、日本の国民にとってもいいことではないかと思う。 



1983.9.24

Egalitarianism and conformism of Japanese schools produces dropouts: more flexibility in the class formation 「週刊時事」1983年9月24日 (なでぎり時評)

・平等、画一主義で落ちこぼれをつくる日本の学校―クラス編成にもっと柔軟性を

 わが家には二人の息子がいて、一人は日本の公立小学校に通っており、もう一人はインタナショナル・スクールに通っている。インタナショナル・スクールというのはアメリカ系のキリスト教の学校であるが、宗教色はそれほど強くない。そのため、いろいろな点で、日本の小学校との比較ができで面白い。 まず入学に際しては、日本の小学校では入学式が華々しく行われる。またそれに続く数週間は、学校生活に慣れるための準備期間ということで、授業時間も少なく、ゆっくりしたぺ-スで勉強が進められる。 これに対してインタナショナル・スクールでは、学齢はそれほど厳密ではなく、五歳でも力があると認められれば入学でぎる。入学式はなく、初日から一年間のカリキュラムに従って、がっちりと授業が行われる。 学校が親や家庭に求め、期待する協力体制についてもかなりの違いがみられる。日本の小学校は毎月のように学校訪問日があり、家庭訪問や個人面接も行われる。これに対して、インタナショナル・スクールでは、一年に一度の両親のための学校訪問日があるきりだ。日本と比べて、学校の領域、家庭の領域がはちきりしているといえる。 インタナショナル・スクールの場合は、学力向上のためにクラス編成で工夫がこらされている。ついていけない生徒は、一段低い学年に一時的に降ろして、力がつけば元に戻すとか、逆に出来のいい生徒は一つ進級させるということもある。 また、課目によっては、例えば日本語の、クラスのように学力の差が大きいものについては、ABC三段階のクラス編成を取り入れたり、特に英語が不得手な生徒のために、課外授業を設けたりしている。そうすれば、自分の学力に応じて学習できるため、子供にとってはチャレンジのしがいがあると同時に、落ちこぼれも出にくいわけである。 それに対し日本の学校では、平等主義、画一主義が強調されていると思う。これはそれなりによい面がある。日本社会の本質的な平等主義、協調精神が育つ基盤であるからだ。ただし、クラス編成に柔軟性がないということで、先生も大変だし、子供も中庸以外の子はあるいは退屈し、あるいは落ちこぼれるという結果を生みやすく、人材育成という点では問題点を抱えているのではないか。学校教育の目的が、学力をつけることよりもむしろ、よい社会人を準備することに向けられているように、少なくても初等教育の段階にあるわが家の子供を見ると感じられる。 確かにしつけも社会的な教育も、学校に頼ろうとする傾向が日本では強い。親の学校への期待の範囲が広すぎる。そして何か事故があれば、すぐ先生の責任、学校の管理責任が大きく取り上げられる。日本の子供はよく保護されている。特に親が過保護であり、従って子供を預かる学校も過保護になりがちである。 外国の場合は、もっと子供を突き放している。五歳の子供が、地下鉄やパスを乗り継いで、一人で登校することもめずらしくない。日本人の目から見たら危なっかしいと思う場合も多いに違いない。しかし、いずれにしろ激しい競争社会に飛び立って行かなければならない子供たちである。 私は、子供は小さい時からいろいろなことを自分でやる機会を与えた方がよいと考える。東京などでは、高いお金を出して郊外に家を持ち、マイホームを楽しむ人が多い。私の場合は逆で、週日は都心に近い、狭いところで仕事中心の生活で我慢する.その代わり、週末には田舎の山の中で、開墾生活をして自然に触れることを実行している。そこでは子供も畑仕事や堆肥づくり、ふろたきなどの仕事をしなければならない。自分の力でやれた時、子供は自信をつける。子供はやらせればできるというのが私の信念であり、そこに教育の基本があると思う。


 1983.10.29

Practical way of life of Japanese women in the emotional discrimination

「週刊時事」1983年10月29日(なでぎり時評)

・情緒的な差別膚識の中で現実的な日本女性の生き方―本能的で深刻な欧米の性差別

 欧米人の中には、日本の女性の地位が欧米の女性よりも一段と低く、男に搾取されて忍従の生活を送っているという考えがまだまだ強い。日本に住んでいる外国人の中にも、そう思っている人はかなりたくさんいるはずである。 確かに日本の主婦は家にこもり、子供中心の生活で、いわゆる夫婦単位の社交生活が少 ないし、夫が夜遅くまで同僚や客と飲み歩いているという現象は日本独特のものである。またテレビ.のニュース番組などで、女性司会者が明らかに男を立てながら補助的な役割を演じているのも象徴的というわけである。こうしただれの目にも触れやすい現象を欧米人の基準で見ると、確かに日本の女性は解放されていないということになる。 しかし私が思うには、これは一概に言えることではない。日本と欧米の社会の性質の違いに基づいた、違った形の差別(あるいは区別)の問題であると思う。 日本では男と女の世界は比較的明りょうに分かれ、それぞれの役割分担がはっきりしている。日本で女が男の職場や仕事の世界に入り込んできた時の人々の反応は、何かなじまない、異和感があるという程度のものである。 これに対して欧米における女性差別というものは、もっと本質的な、生物学的な性差意識に由来するようだ。日本で想像する以上に性差に対する意識が強い。男と女は違うもの、その区別を消そうとするもの、あるいは混同するものは、社会から強く反発を受ける。 ホモに対してより風あたりの強いのも欧米である。日本に古くからある混浴の習慣は外国では考えられない。また外国人の女性にとっては、日本の喫茶店などに見られる男女兼トイレは非常にショツキングだという。 こうした考え方は職場にも反映している。私は以前に官僚機構の中で働いた経験があるが、そこの女性たちは非常に苦労していたのを知っている。というのは、そこにおける差別が意識的というより本能的、便宜的というより本質的なものであったからである.欧米の女性の場合、性差別に基づいた社会の中で、男と同じにやっていこうとして、あちこちの障害にぶつかる。それが人格形成に残す傷跡は深刻である。壁がそれだけ厚いといえる。 欧米における女性解放運動が最も戦闘的であったのは必然である。意識の底からの変革でなければならなかったわけである。 日本では徳川時代の士農工商の身分制度で、最下位に位置づけられていた商人階級が、実際にはかなりの力を持ち、本音の世界では武士をも見下し、マイぺ-スで暮らしていたのと似て、日本の女性は家庭においては大蔵大臣として、サィフのひもを握り、男性社会の中でも結構同一貸金で働いている例が多い。 社交生活を見ても、欧米式ではカッブルにならなければならない.接待ということでも夫婦単位で行動する。つまり妻は夫の会社の上役や同僚あるいは顧客をもてなす場合に、家に呼んでごちそうしなければならない。招かれれば、ついて行かなければならない。そしてその際は、魅力的な妻であり、会話もしゃれているように気を使う。 日本では接待は外で、専門のホステスを使ってやる。奥さんはその間、家で自分のぺ-スで時間を使うことができる。日本の女性は、そういう意味で、女性だけの世界で守られていきいきしている。もちろん女性が男性よりも優れた能力を発揮できる場では、たとえば女流文学の隆盛に見られるように、名を残す女性は多い。 一切の差別がなくなれば一番理想的である。しかし、現実の競争社会では差別はなくならないであろう。だとすれば、男女差別のない分野、新しい分野で実力を発揮するという日本の女性の生き方は、なかなか現実的である。


1983.12.3

Priority order is reverse in the salons of elderlies and overcrowded classrooms

「週刊時事」1983年12月3日 (なでぎり時評)

・優先傾位が逆転している老人サロンとスシ詰め教育―公共の金の使い道に思う 

最近、子供がけがをして、近くの医院に通ったことがあったが、その時驚くべき発見をした。子供といえば、うちの子一人で、他の患者はみんな老人なのである。朝から顔見知りが集まって来るのであった。彼らは治療を受けるだけではない。日課として医者通いをする中で友人と会い、おしゃべりをし、雑誌を読み、ひなたぼっこをしながら、ゆったりとした時を過ごしているのである.そこはまるで老人のためのサロンという異様な雰囲気であった。 何しろ彼らにはヒマがあり余るほどある。その上、体のことはもう第一の関心事であって、趣味というより生きがいそのものなのである。そこでほとんどただ同然の安い費用で健康管理という生きがいを満足でき、気持ちのよいひとときを過ごせる医院通いはもってこいなのである。 「思いやり」のある社会としては、これは確かに美しいことである。これまで苦労して働いてきたお年寄りに多少のぜいたくを楽しんでもらおうということであろう。 しかし、これにはすべ′て金がかかっているのである。だれがこれを支えているのだ。税金としてわれわれがその金を払っているとなると、そう単純なことではなくなってくる。 こうした町医者の風景のすぐ隣には、小学校や中学校の元気な声が聞こえてくるのであるが、そこをひと目のぞくと、さきほどの医院風景とは対照的な光景がある。狭い教室の中に、四十人以上の生徒がひしめいているのである。先生も生徒もどんなに苦しんでいるのかわかっているのだろうか。いまどき欧米や先進国で、一クラス四十人などということは考えられない.少しでも実のよい教育を求めて、私立や国立の学校に親も目の色を変えて殺到している現実もうなずける。この点で、日本は明らかに教育後進国である。 かたや優雅に医療制度を利用している老人グループ、その背景には大量の、多くの場合不必要な薬を出させて暴利をむさぼっている薬品業界や医療関係者がいる。かたや社会の将来を担う子供たちがその犠牲になって苦しんでいる。 どうも日本では、一つの経済の中では必ず選択があるというととがよく理解されていないらしい。よく聞かされるスローガンの中にも、賃上げをし、物価を下げて、減税もせよなどというのが平気でならんでいる。情緒的にはお年寄りは大切にするのは結構なことであるが、これはあくまで選択の問題であり、緊急性に基づく優先順位の問題である。私はスシ詰め教育と〃老人クラブ〃との間には優先順位が明らかに逆転してしまっていると感じるのである。 別の例であるが、日本専売公社は税金を使ってたばこの宣伝をやっている。しかも暴走族まがいの若者を使っている。その流す害悪はどんなものであるか考えてみるとよい。まず若年化しつつある喫煙傾向をますますあおることになるだろう。そして喫煙によって害された健康のしりぬぐいは、国民健康保険をはじめいろんな保険を通じて、みんなにツケが回ってくる。 それに比べれば、いろいろといわれている赤字国鉄にはまだまだ同情の余地がある。専売公社が完全な独占を楽しんでいるというのに、国鉄は、経営合理化に心血を注いでいる私鉄や航空会社との競争という厳しい環境がある。 新幹線が非常に国民のために役立っていることはいうまでもないが、そのほかに新幹線 の波及効果は計り知れないものがある。たとえば、東北新幹線によって東北地方に新しい産業が刺激され、各都市も新たな文化の中心として大きく脱皮し、各駅には新しいビルが続々と建設されて、住民の利益にもつながっていく。 公共の金もわれわれの財布の金なのである。ただほんの少しばかりモ抽象的〃 になっただけである。


 1983

The ‘Green Corps’ to fill the gap between the city and the countryside: town people regard rain as troublesome

都市と農村のギャップを埋める「緑の隊」を提唱する―雨を厄介者扱いする都会人

今年の夏の日照りは異常だった。ほとんど雨らしい雨のない日が二カ月以上続いた。私はじっと天気予報に聞き耳を立て、今か今かと雨の便りを待っていた。実際これは、雨の少ないオーストラリアでさえ深刻になるほどの干ばつだと思った。 ところが、予報官もアナウンサーもすました顔で、雨の降る確率0%というだけだった。それを開くと、まるで不快指数0%という発表と同じょうに聞こえ、雨は厄介者、いやなものとしか考えられていないかのようだ。ほんとうに信じられないことだつた。こんなに野山も川も干上がってカラカラなのに、うるおいの好きなはずの日本でだれも心配しないとは。 しかし、これは都会の人たちである。雨といえば、外出に不便だとか洗濯物の乾き具合のことしか頭にないらしい。私は田舎に畑を作っているから、もちろん第一番にそのことが心配だったけれど、あながちそれだけのためではなく、みんなのためにも心配していたのである。 山や野原は褐色でオーストニフリアに似てきたし、地面のひび割れは日一日と大きくなった。それでも日本では地下水に恵まれているから救われるようなものの、濯漑設備がよくないから、ある程度を超すと、被害が大きくなる。水戸の階楽園の梅の名木が枯れ始めたというニュースが流れて初めて、人びとはショックを受けたようであった。 農村部の深刻な現状に対して、都会の人びとの無関心は無くぺきことであった。まるで都会の人間と農村の人間は違う人種、といわないまでも、別なカーストみたいである。無関心のみならず対立さえ感じられる。農村が受けるさまざまな形の補助金は、消費者、納税者としての都会人の反発を招く一方である。 私がこういう印象を強くしたのは、今回に限ったことではない。いつか紀伊半島を旅行した時緑深い山国をローカ線で行ったが、列車内で偶然に隣り合わせた青年のことを思い出す。その人は、都会の生活にあき足りずに農村に入り、廃屋を買い取り、荒れた土地を耕して農業生活を始めた。彼が苦労したのは、開墾や栽培の難しさではなかった。それよりも周囲の理解のなさ、うたぐり深い目、それに農業をやる許可がなかなか下りなかったことだったという。ちょうど一つのカーストかちもう一つのカーストへ移るのが非常に難しいのと同じようである。 こうした都市と農村のどうしようもないギャップを埋め、自然な形で交流を進め、相互理解を深めるために、私が以前から構想しているのが「緑の隊」だ。軍隊に対しての「緑の隊」。そこでは若者たちが一定期間、山へ入るのである。そこでさまぎまな訓練や労働奉仕を盛り込んだ集団生活を経験する。今の若者は体力もないし、精神力もないとはよく開くことである。若者たちもある程度そうした場を望んでいる。 もし戦争にでもなった場合、中曽根さんではないが、今の若者で国を守れるだろうかと考えると、だれもそう思わないだろう。自衛隊にも任せておけないし、、、ということになれば、一番考えられるのが例えば長期のゲリラ戦ではないか。その際は全国民レベルでがんばる持久力しかない。いつか本誌の「海外レポート」で、マレーシア・ジャングルの開拓村で、わずか二週間で見違える性どたくましく変身した若者たちが紹介されていた。 「線の隊」では、多くの若者が体力をつけると同時に、がんぼる力を身につけることができるだろう。 たとえ戦争にならなくても、若者たちが数カ月でも山に入ることで、山は緑になり、谷川は整備され、若者たちはたくましくなり、そして何よりも、都市と農村の交流が促進されるのであるから.、一石が何鳥になるかわからない。



1984.4.7

Service industry has many effects like several birds with one stone

「週刊時事」1984年4月7日(なで斬り時評)

・ 一石で何鳥もの経済効果 のあるサービス産業― 生産より需要が先の経済鉄則

先日、NHKのテレビ番組を見ていると、このごろ人気上昇中の新しいサービス産業、ソフト産業についての番組をやっていた。その中では、新しいタイブの引っ越し産業や、次第に豪華になった、またアイデアに富んだ新サービス産業があれこれ紹介された。 番組の終わりの方で、著名な評論家が何人か出て来て話をしたが、彼らの意見を聞いていると、何かサービス産業の発展が悪いことのように思えるのであった。とくにある評論家は、そうした豪華なサービス産業が盛んになると、日本は将来において英国病になってしまうと予言したのである。 これには非常に驚いた。日本が英国病になるかならないかという問題は、価値観の違いの問題であるからさておくとして、経済学的にみれば、サービス産業の発展と多様化という方向は避けられない問題であるからだ.例の評論家の先生を考えてみても、日本の経済発展につれて、彼らの所得や年収も年々上がっていると思うのである。所得が上がれば余分なお金、追加収入はどう使っているか、を考えてみていただきたい。 増えた収入は子供の教育費や海外旅行、スポーツやレジャーの回数を増やしたり、友人たちとのつき合いや趣味などへ振り向けられるのではないか。ということは、他の人も同じようなことを考えるという結論に達してもおかしくない.そうだとすればサービス産業は自然と拡大される。 もちろん、在来の伝統的なサービス産業が発展することもよろしかろう.それと同時に、新しい形のサービス産業、たとえば先ほどのデラックス引っ越し産業とか、あるいはレジャー施設なら後楽園だけではなく、ディズニーランドのような新しいものが生まれまたホカホカ弁当などが出て来ても悪くない。 消費だけでなく、貯蓄も伸びればいいことだ。しかし、もし仮に収入のアップ分が全部貯蓄に回ったとすると、だれか他の人がその金を使わなければならなくなる。民間の企業が使えげよいが、それには限界があるから、結果としては、政府がその金を使うことになる。しかし、ご存じのように政府の金の使い方にはムダが多い。 経済のもともとの意味と目的は、人々の欲求を満足させることである。経済が拡大すれば、それとともに人々の欲求が拡大しなければ、経済は早い時期に行き詰まることになる。行き詰まる前に、もう少し合理的に考える必要があるのではないか。 今の日本経済の回復の一大ネックとなっているのは、非常に消費が鈍っていることである。一消費者として、私個人のことを考えてみると、魅力ある消費がだんだん少なくなって来ているといえる。その理由はやり方が古い、ワンパターンでバラエティーに乏しい、また合理的でないなどが考えられる。サービスではなく、生産の方を強調してもいいのだが、生産を拡大すると、いきおい国内では売り切れないで外国へ売らなければならなくなる。そうすると、貿易摩擦はますます深刻なものとなる。 結論的にいうと、サービス産業の発展と多様化によって、一石で二鳥でも三鳥でもの効果をあげることができるということだ。英国病の原因は消費意欲ではなく、もっぱら働く意欲の方に問題があることがわかる。 日本の場合、問題は人々の消費意欲がなくなれば、貯蓄をする意味がなくなり、したがって働く意味もなくなる。ある人の生活が豊かになれば、「働かなければならない」という緊迫感は薄れてくる。それはどこでも問題であるが、それを解決するため、国民全体に貧しい生活や不便な生活を無理強いするようなやり方はおかしいのではないか。 これは経済の鉄則であるが、経済は生産の面から引っ張られるのではなく、常に需要の面から引っ張られているのである。需要がなければ経済は成り立っていかない。



1984.5.19

City center houses provide convenience in place of space: the location and the house reflects way of life

広さの代わりに便利さが買える都心住宅の合理性―住む場所と家は人生観の反映

最近は日本人の好みや趣味はとみに多様化してきて、各人各様の要求に応じてたくさんの商品が、手を替え品を替え店頭に出回るようになった.これは生活の豊かさ、余裕のひとつの現れであろう。 ただそうした傾向の中で、生活のべ-スともいえる住居は、一向に変わっていないように思う。住む場所と住む家についての考え方の中には、極端にいうと人生観が反映されるものである。住居に対する多くの人の考えることは似たりよったりのようである。 それは、どこか郊外の緑の多い環境の中で、庭付き一戸建ての住宅を持つということ。都心を離れてというのがみんなの願いのようだ。きれいな空気、目に緑、広い(描の額ほどではない)庭、、と考えていけば、どうしても都心を一~二時間離れたところに行きついてしまう。 しかし、都心へ通うための通勤や外出の時間は大変なものだし、それに費やす体力は計り知れない。往復三時間などというのも珍しいことではない.早朝出勤と深夜帰宅で、子どもの顔もろくに見る機会のない父親も多いのではないかと思う。こういう種類の実質的な母子家庭も増えているに違いない。そして週末ともなると、家のことで結構振り回される.庭の手入れ、家の掃除、マイカー手入れで一日つぷれてしまう.家族そろってどこか好きな所に出かける機会もなくなってしまう。 私なら週末には、できれば家族で郊外へ出かけたい。もちろんこの郊外は、いわゆるニューサパーブではなくて、住宅のない自然のある郊外の話である。私が瀞増潅漑憤、奥多摩、秩父、丹沢などのハテキングである。東京から日帰りの出来る所はたくさんある。 皆が言うには、観光地は週末はどこも込んでいて、行っても仕方がない。自然にひたれる所はど正にもない0家の庭を眺めていた方がましだということである。しかし、実際に私が歩いて発見したのは、どこに行っても驚くほど人が少ないというこ上である。名所をはずしさえすれば、あとは地図を開いて自分なりのルートを探せぼよいのである。 しかし、郊外に住んでいると、こうしたことができにくいのではないか、心理的に。都心に住んでいて、ウイークデーは狭いところでがまんする。どっちみち外出がちな週日である・広さの代わりに便利さを買う。 夜遅くなっても、終電車の心配はいらない。タクシーが足代わりになってくれをし、自転車も使える。たまには東京に来た友人から急に電話がかかってきて、ホテルのロビーで会ったりする。郊外に住んでいればせっかくのチャンスも逃してしまうかもしれない。 その代わり、週末には行きたい所へ行って、日常とは異なった空間を体験してみる。電話もこないし、空気も変わる。気分も変わる。私の国(豪州)のキャンべラでは、だれもがせいぜい三十~四十分の所に住んでいて、勤めが終わってシャワーを浴びて着がえをしてから、奥さんは子供の食事も用意して、二人で出かけることが多い。 不思議なことに日本では、こうした「郊外ブーム」のせいか、郊外の土地の値段はかえつて高い。一般に高級住宅地といわれる地域も、通勤時間の長さなどとまるで関係なく、バカ高い。それなのに、そういう場所に住みたいという憧れは、一向に弱まる気配がない。都心に近い、あまりファッショナブルでない所はかえって家も土地も安いのである。ただし探すためのいくらかの努力はいるが。 外国では、もう十年前に人びとが遠い郊外住宅に住む不合理性に気づき始め、都心へ戻るUターン現象が起こつている(日本では通勤のための費用は会社や雇い主が払ってくれるシステムになっていることも、郊外化と関係あるかもしれないけれど)。でも、職住接近すると、車内のいねむりの楽しみや、外泊のための口実がなくなると心配する人もいるのでは、、、?


1984.6.23

To criticize the national railway is good but the Japan Tobacco State Corporation also Needs severe checking

国鉄批判もいいが、専売公社の放漫経営に厳しい目を―赤字抱えても波及効果は多い国鉄

最近、家の近くを歩いていると、今まで見たことがなかったりっぱなテニスコートがあるのに気がついた。私の住まいは、狭いながらも都心といえるところにあり、まさかこの辺にテニスコトトがあ′ろうなどとは、夢にも思わなかった。しかも、人気がなく静かであった。何度かそこを通ってみたが、いつの時もだれも使っていない様子なので、「あわよくばノと思って聞いてみると、日本専売公社のものだという。社員の厚生施設の一つだとのことだった。 そういえば、オーストラリア大使館のある三田にはたびたび行く機会があるが、そこに日本専売公社の病院というのがあったことを思い出した。専売公社の病院というのできっとこのりつぱな病院で、肺ガンになった人を治療してくれるのかと思ったのだが、実際には専売公社の職員の専用病院だということがわかった。 これはほんの一例にすぎないが、日本専売公社が非常に金回りがよいという話はよく聞く。どうしてそんなに羽撮りがいいのか。それはもちろん専売公社が独占企業だからである。そういえば、あの病院の付近には、「専売事業の民営化反対」というプラカードが立っていた.それはそうだろうと思う。 同じ公共の企業体でも、国鉄の場合を考えてみると、世間の風当たりは全く厳しいものがある。専売公社が独占体制の上に乗っかって、当然ではあるが、黒字経営を続けているのに対して、国鉄の方は赤字続きの経営で行きづまりを見せているからというのが一番の理由である。世間の目は弱いものに対しては、より厳しいもののようである。 しかし、よく考えてみると、国鉄の経営赤字の原因は、全部が全部国鉄の責任とはいえないのである. 国鉄の経営については、もちろんいろいろな問題点があるのは確かである。私も批判したい点もある。しかし、国鉄の赤字を生み出しているのはだれか。たとえば赤字ローカル線はだれがつくったか。決して国鉄がつくったわけではない。政治家が、選挙などの利益のためにつくらせたケースが非常に多いのではないか. ローカル線の設置が決まれば、国鉄は反対できない。赤字であろうとなかろうと、ローカル線を建設し、走らせなければならない。そして、そのための金は全部国からもらわなければならない。 国鉄にとって最大の試練は、独占ではないということである。専売公社と違って、赤字口ムカル線を抱えながらたくさんの民間企業と競争していかなければならない。 国鉄の場合、少しのミスも許されない。事故でも起こせば大変なことになる。職員が勤務時間中に入浴すれば、すぐ世間が騒ぐ。しかし、いろいろ問題はあるにしろ、国鉄はサービスを生産しているのである。その功績は、単に鉄道を走らせるだけでなく、波及効果を考えれば、計り知れないものがある。 一方、専売公社はどうだろうか。生産しているものといえば、いかに三浦友和さんを動員したといえ、有害物である。外国ではちゃんと箱にそう書いてある。 いつかテレビで見たのだが、チンパンジーがストレスのためノイローゼにかかり、それを治療するために、おもちやを与えてみたら、それが快方に向かったという話が紹介された。その時、チンパンジーを取りまく医師団のうち、六人中三人までがたばこを片手にプカブカヤっているのである.思わず笑ってしまったのだが、考えてみれば、笑うに笑え ない話ではないか. とにかく、国鉄の場合、こうしたいろいろなハンディを背負ってやっているのに、国民の目は非常に厳しい。それに比べ専売公社の独占的な放漫経営については、だれも注意していないように思えてしかたがないのだが、、、。