Keizai Kai – November 19, 2002 経済界 天下の正論 巷の暴論 多くの倒産と資産価格の下落を招き、不良債権を増やすだけになる小泉改革の本質 日本の開場は供給過剰と裔要不足で、必要なのは需要重視型の経済改革だ 市場原理主義を振りかざす教科書的な経済学者たち 小泉首相の「構造改革」の第1ラウンドが終わっものの、いまだに景気は瀕死の状態だ。ところが今度は、この状態を打開ドがの状するには銀行の不良債権を処理するべきだと語がれるようになった。 だが銀行の不良債権は不景気の産物であって原因ではない。銀行の不良債権対策は、資産価格の低下に歯止めをしてこそ意味がある。しかし債務を支払えない者を追放し罰しようとする「改革」では、さらに多くの倒産と資産価格の下落を招き、不良債権を増やすだけだ。政府は今より小刻みに支出を行ってデフレの進行を防がねばならなくなをだろう。自分の尻尾を追い掛けている犬のように、日本の景気はぐるりと回って18 カ月前(編集部注・銀行の不良債権最終処理として政府・与党による緊急経済対策の発表が行われた)の状態に戻ることになる。 だが2流の共産国のように、すべての敗北は次なる勝利の布石として吹聴されるのである。日本政府は今度は自ら生み出した不良債権とデフレを克服すると誇らかに約束している。トンネルの出口はすぐそこまで来ており、一足出れば輝かしい未来が開けている。問題を最初から正しく理解して?いた者は、そんな輝かしい未来の到来を頑なに阻もうとする閤の勢力として退けられた。 こんなに独善的な間違いを犯しているのは、一体どういうわけだろう。 まず責められるべきは首相である。首相は国債の発行を増やさないという考えに凝り固まっている。確かに700兆円という国と地方を合わせた借金は空恐ろしい数字である。だが1400兆円という日本の膨大な個人金融資産と比べると、これくらい支出しなければ日本の需給格差は今よりはるかに大きかっただろう。 もちろん政府の支出を賄うために税金に頼っていたほうが良かったには違いない。だがこれは2次的な問題である。国債発行額が多過ぎるというなら、なぜ人々はこんなに低い金利でもまだ一国債を買おうとするのか。 首相の経済アドバイザーの罪も大きい。彼らの多くは経験がなく、慶応や一橋大学の右翼的派閥出身の、市場原理主義を振りかぎす教科書的な経済学者たちである。かつて彼らはIT革命が日本の景気の救世主であると固く信じていた。今では1980年代にアメリカやイギリスの経済を救ったといわれる、レーガンやサッチャーの」巾場志向的改革を信奉している。 われわれは日本に見切りをつけて中国語を勉強したほうがいい これらの改革(民営化、自由化、予算削減)がアメリカやイギリスのその後の景気回復に重要な役割を果たしたかどうかは議論の分かれるところだ。特に予算は削減されなかったのだから、なおさらである。私は労働組合が弱体化しアジアなどから安い輸入品や海外のファンドが入って来たお陰で、インフレや国際収支の問題が緩和されたことのほうが重要なのではないかと思う。だがこれらの改革が完璧に遂行されていたとしても、それを日本に当てはめるにはやはり無理がある。 米・英の改革は、過剰な需要に応えるために、品物やサービスの供給を自由化し、効率を高めることが狙いだった。つまり、供給重視型の経済学である。日本の問題は供給過剰と需要不足で、それとは正反対である。これには需要重視型の経済学が必要だ。 韓国の早期回復の鍵は銀行改革だったと指摘する者もいる。しかし韓出凶の最近の経済回復においても、強力な消費者の需要によるところがはるかに大きいのである。 さまぎまな理由(多くは文化的理由)により日本にはその需要がない。大規模な規制緩和を行えば縮小した民間消費は増えるかもしれない。だが恐らく最終的には、政府が需要不足を補えるようにするための税制改革も必要になるだろう。一方、市場志向型の専門家たちは民間需要拡大のため減税を促しているが、減税分の多くは余剰預金に回るだけだということをほとんど理解していない。 現在アメリカ政府は竹中大臣を大っぴらに支持している。同氏は日本の市場粛理主義者の急進派とも言うべき人物で、このたび銀行を監督する金融担当大臣にも任命された。ニュースによるとアメリカは、日本の不景気で中国がアジアの経済を牛耳るようになるのではないかと懸念しているそうだ。 アメリカ政府が竹中大臣の政策で日本の景気が回復すると考えているのなら、本当にもう我々は日本に見切りをつけて中国語を勉強したほうがいいのかもしれない。
MoreKeizai Kai – October 22, 2002 57-経済界 天下の正論 巷の暴論 原発は日本にとって必要なものだが、今、ガ吋れを告げるときかもしれない 政府は東京電力を非難しているが、 日本ハムと同様、誰も責任を取っていない 大人らしく理性均な選択したフランスの世論 東京電力が何年も隠蔽しようとしてきた原子力発電 所のトラブルは、それ自体はさど危険なものではないかもしれない。だ がこのトラブル隠しは、日本の原子力発電の議論に壊滅的な影響を与えることになるだろう。 私はここ数年、日本のいくつかの原子力 エネルギー委員会で委員を務めてきた。私 は最初から、日本の原子力産業全体が火薬 庫の上に鎮座しているようなものだ、と警 告してきた。日本の組織は、自らの繁栄と隼き残りだけを求める排他的社会であるから、間違いやトラブルは隠蔽しなければならなかった。だが、他の産業ならさほど問題にならないかもしれないこの体質が、原子力産業にとっては自滅へのシナリオとなった。 いつかはどこかで重大な隠蔽が明るあに出る。そうすれば、日本の原子力発電を黙認している世論の徹妙なバランスが崩れてしまうだろうことは、明らかだったのだ。 フランスの世論は原子力発電のメリットとリスクに向き合ったとき、大人らしく理性的な選択をしたが、日本はフランスとは適う。日本は不安定で感情的で、むしろわれわれアングロサクソンやそのほかの北欧社会に近い。これらの社会はほかにも日本と類似点が多く、そこでは反原発運動が大勢を占めている。 日本の進歩派もそれと同じ感情的な方向へと動きつつある。今日まで、日本の原子力産業は、まあまあ大丈夫だからとなだめすかしていれば、頭の古い国民の了解を何とか取り付けて来られると思っていた。だが、イギリス、ドイツなどと同様、活動家や市民の運動が、そんな受身的な合意に異議を唱えるようになるのは避けられない展開だったのだ。 そうなったからといって、フランス式のインフォームドコンセントに急に飛び付くわけにはいかない。国民を教育し大人とし て扱うためには、すべて 前もって准丁備しておかな ければならない。原子力産業は、トラブルに対しては何垂もの予防措置を講じると、くどいほど確約する必要があるのである。 だが、ここ数年私が出席しているいくつかの原子力エネルギー委員会の報告書には、不断の警戒と安全性をうたった退屈で甘ったるい保証しか見当たらない。私は、原発には確かにリスクはあるが、業界はそれを最小限に抑えるためあらゆる手立てを早くしているという文言を入れようとしたが、その努力は実らなかった。 原発は必要という私のアイデアを無視してきた政府・官庁 私はまた、業界に対する政府の管理とチェックがどれほど不十分なものかを論じようとした。検査はおぎなりで不十分である。これでは検査官は簡単にごまかされてしまうと。 実問題の所在を知っているのは、実際に業界の深部で働いている人たちだけだ。彼らに自由に喋る機会を与えなければならない。業界内の内部告発を推奨することである。たとえ幹部によって告発者が押さえつけられるリスクがあるとしても、それが第一歩なのだ。理想を言うと、業界は内部告発の内容を受け取り、それを調査する公平な第三者のオンブズマンを設置すべきである。 このオンプズマンについての私のアイデアはさっぱり受け入れられなかった。内部告発者にはその勇気に報いるべきだという私の提案も、さして評価されなかった。 原子力装置のひび割れに対する東京電力の怠慢を公表しようとする人が実際に現れたが、彼はその訴えを聞いてもらうのに、業界を監督する経済産業省まで持って行かなければならなかった。そこまでしても、会社のあらゆる妨害により、彼の訴えが日の目を見るまでに1年余りも待たねばならなかつた。 私は先に安全管理を評価する委員会で、重大な落ち度が明らかになった場合は、安全性を担当する政府高官が進んで辞任すべきだと提案していた。そうすることでしか、安全性に対して政府が真剣に取り組んでいると国民に納得してもらうことはできないからである。だがこのアイデアも相手にされなかった。 この度のトラブル隠しで、政府の人々はここぞとばかりに東京電力を非難し、経営幹部を辞任に追い込んだ。だが日本ハムの隠蔽事件同様、政府側では誰も責任を取っていない。 日本は今、あれほど努力を払ってつくり上げた原発産業に、別れを告げるときなのかもしれない。原発は日本にとって本当に必要なものであるにもかかわらず。しかし、すべては自らが、そして官僚が招いた結宋なのである
MoreKeizai Kai – August 27, 2002 経済界142 天下の正論 巷の暴論 日本は外国人労働者に対する規串叫を緩和し、経済などあらゆるメリットを享受しろ 犯罪を企てる不法入国者 阻止こそ重大な岡題 本物の難民が1割しか認められていない現実 5月8日に起きた瀋陽の日本総領事館の事件を受けて、法務省は難民政策検討委員会を設置した。筆者もそのメンバーであるが、そこでの議論を見ていると、あまり期待が持てそうにない。 日本の正式なアプローチを批判しようというのではない。ほとんどの国と違い、難民に関する国連条約および議定書への調印国 として、日本は今なお正しい手続きを踏まねばならないと考えている。よって日本にいる外国人は誰でも(たとえ偽造パスポート所持やその他の違反で捕まったとしても)原則的には、開き直って難民であると申し立てさえすれば、自動的に正式な法の手続きを受ける権利を得られるようになっている。 この手続きというのが実に丁重なもので、難民申請者にはその立場が合法的なものであることを示す文書が与えられ、それによって外国人登録証を受け取ることができる。この外国人登録証は多くの国内不法滞在者にとって貴重なものだ。これさえ手に入れば、難民申請者は好きなところに自由に住み、旅行し、仕事もできる。 彼らが本物の難民かどうかを判断するため、時折面接の呼び出し状が届く。だがそのうち3分の1は呼び出しを無視して姿を消してしまう。呼び出しに応じる者でも、難民認定を下す前の面接を、優に1年以上も先延ばしすることができる。 難民認定が認められない場合、申請者はさらに数年間に及ぶ訴訟を開始することができる。しかし大半は他国へ行ってしまう。難民として逃れて来たはずの母国へ帰って行く者さえいるのだ。 難民申請者のうち、本物の難民として申請が認められるのは約1割にすぎないことについて批評家はとやかく言うが、このような背景を考えると認定率が1割と低いのも当然である。また批評家は、日本が負担している膨大な費用についても考えてみるべきである。特に、資料をさまぎまな言語に翻訳して出したり、面接のために常に適切な通訳を見つけたりしなければならないことをだ。それも、大多数はそもそも本物の難民ではないというのにである。 同じ資金を費やすなら、犯罪を企てる不法入国者を入れないように努力するほうが、よほど日本のために役立つのではないだろうか。 日本に批判されるべき点があるとすれば、それは海外の難民キャンプにいる本物の難民を受け入れようとしないことであろう。日本は国内にいる者からの申請しか受け付けないとしている。そもそも、「難民とは何か」という定義を考えて偽れば、難民申請をしようとはるばる日本までやって来られる人々が、本物の難民であることはほとんどないというのにである。 まじめな不法労働者を連行し倒産工場が出ていいのか 難民申請者の多くは、外国でより良い生活をしたいと考えている経済難民だ。よって不法入国者として入団を拒絶されるケースがほとんどだが、その送還もまた問題となる。一方、きちんとした移民が安定的に日本へ入って来れば、日本には経済、文化、人口などいろいろな点でメリットがあることも明らかである。1994年に私は九州の森林地帯を訪れたが、そこは深刻な人手不足に悩んでいた。だが同じころ、そこからそう離れていない福岡県では、適法入国した数十人の元気な中国青年たちを国外退去させるために警察が一斉検挙を行い、マスコミもそれに拍手を送っているところだった。 入国管理当局は東京都北部の金属工場から多数の不法労働者を連行し、本国へ強制送還している。たとえそれで倒産する工場が出ようと、全くおかまいなしだ。 ひとつの解決法としては、日本が外国人労働者に対する規制を緩和し、不法な経済難民に対しても、合法的に日本への入団を求める人々と概ね同じ基準を適用することである。決定は迅速つ変更不可とする。移民基準に当てはまる者は国内滞在が許可され、当てはまらない者は(必要ならカづくでも)退去させる。 これで本物の難民が不法な経済難民と誤認されたりしたら、それは酷かもしれない。だが国連が難民の窮状にぞれほど心を砕いているのなら、国連にもいささかの負担はあってしかるべきである。国連は世界中に難民キャンプを持っているのだから、認定を拒否された難民は、それらのキャンプのどこかひとつに送り届けてもらえるというオプションがあってもよいだろう。 グレゴリー・クラーク プロフィール/1936年イギリス生まれ。オックスフォード大学修士課程修了。オーストラリア外務省、「ジ・オーストラリアン」紙東京支局長などを経て、79 年上智大学教授。95年多摩大学学長。現在、多摩大学名誉学長。
More2002.2.19経済界170 天下の正論 巷の暴論 経済失政を繰り返してきた日本。小泉純一郎首相に任せていては手遅れになる。 景気回復を妨げる個人金融資産1400兆円の過剰貯蓄性向 小泉純一郎首相が進める構造改革が日本経済を救ってくれるという最近の一連の論調は、クリント・イーストウッドの西部劇の再放送を見ている浅はかな男の話に似ている。イーストウッドは全速力で断崖に向かって馬を駆っている。男は友人に、「あの馬も乗り手も絶対に転落しないことに賭けると言う。友人は「転落する」と一言う。だが、結局人馬共に転げ落ちてしまう。友人はこの映画を以前に見たことがあり、結末を知っていたので、「金はもらえない」と言う。「僕も前に見たことがあるよ」と話す男に対して、「どうして『落ちない』に賭けるなんて言ったんだい」と友人が尋ねると、男はこう答えた。「だってイーストウッドはとても頭がいいから、2回も同じ間違いをするわけがないと思ったのさ」 96年、当時の首相・橋本龍太郎氏は歳出を削減し、改革を断行して経済を立て直すと誓った。ところが、立ち直る兆しの見えていた景気の回復は失速し、経済は不況のどん底へと向かって急激な落ち込みを見せた。そこに新政権が発足し、歳出の拡大を約束したために辛うじて救われたのである。 今日、われわれは全く同じ筋書きが繰り返されているのを目の当たりにしている。今回、その職にあるのは小泉氏だ。99年の緩やかな景気回復は息の根を止められ、日本経済は再びどん底状態にある。 日本の一番大きな問題は慢性的な消費需要の欠如であり、政府による歳出削減は今必要なこととは全く正反対の措置である。日本の政治家はいつになったらこの大事なことを理解できるのだろう。日本のように強い経済大国でも、老若男女合わせて1400兆円が個人の金融資産としているような状況では、経済がうまく機能するはずがない。 かつて日本は、輸出の拡大や、不良債権を増やす元になった土地価格の暴騰などにより、国内の需要不足を切り抜けることができた。しかし、これらはみな、円高の進行とバブルの崩壊によってあっけなく終焉を迎えた。ケインジアンの唱える政府支出の拡大による国内需要の拡大こそ、今、求められる唯一の解決策である。長期的かつ合理的な改革によって、消費者支出刺激のためのインセンティブも必要である。 こと経済に関する限り、日本人はなぜいつも間違った方向に舵を切るのだろうか。一つは、大局を見ずして細部にこだわる文化的傾向があるからだろう。メディアは小泉首相の民営化計画について隅々まで厳しく目を光らせているため、国内だけではなく諸外国までが、構造改革を進めれば日本は立ち直るという気になっている。一方、日本の経済問題の背後にある重要な原因、すなわちこれほど過剰な貯蓄を引き起こした要因を真剣に考える者はほとんどいない。 日本経済が抱える問題点は供給過剰と需要不足のジレンマ 日本経済がいとも簡単に間違った方向へ行ってしまうもう一つの理由は、戦後長い間、大学で独断的なマルクス経済学の理論が幅を利かせていたことがある。現在その大きな反動が、主に慶応大学や一橋大学を中心とした新世代の経済学者たちに表れている。彼らは80年代にアメリカやイギリスが取った、右寄りの放任主義的サプライサイド政策を、欧米の経済学者たちも驚くほど深く信奉している。過剰供給と需要不足という日本経済が直面している問題は、かつて多くの欧米諸国が直面した問題とは正反対であることが、これらの人々の未熟な頭には思い浮かばないようだ。 小泉首相の経済顧問を務める慶応の経済学者たちが中心となって作成した今回の経済白書では、一方で需要問題があることを認めているものの、時代遅れのケインズ経済学による解決法など役に立たないと主張し、経済効率を高める改革を求める内容となっている。日本の一流経済紙である日本経済新聞は、需要不足が問題なのであれば、経済効率を高めて供給を増やしても何の解決法にもならないと皮肉っている。 日本経済新聞がその立場を変えたことは、興味深い。かつて同紙は、先頭に立って、ケインズ的政策は役に立たないと唱えていた。私自身、同紙とは長い付き合いがあったが、5年前に過剰な貯蓄が経済の悪化を招いていることが分かっていないと公に批判したところ、その関係は絶たれてしまった。 小泉首相の側近の中には、今年の政策で結果を生み出すことができなければ、景気について何らかの手を打ち始めるだろうと言う者もいる。しかし、そのときには、日本経済はもう既に手遅れの状態になっているかもしれない。 グレゴリー・クラークプロフィール/1936年イギリス生まれ。オックスフォード大学修士課程修了。オーストラリア外務省、「ジ・オーストラリアン」紙東京支局長などを経て、79年上智大学教授。95年多摩大学学長。現在、多摩大学名誉学長。
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